パリの香り 2022.01.02
「パリの香り」
二十代の若かりし頃、初めて海外旅行に行った。
少しだけ慣れてきたパリの街を、友人と二人で 冒険心から裏通りのレストランに飛び込んでみた。
飲み慣れないジャスミンティーの香りと味わいには戸惑ってしまったが、 ボトルワインと共に味わった料理は格別だった。
酒に弱い友人と私は酔い潰れてしまって、 随分と大変な思いをしてホテルに戻った。
翌朝、友人は昨夜の店に忘れ物をしたことに気付いた。 なんと、財布とパスポートを!
昼少し前だっただろうか、再びその店を訪ねてみた。
店先で、昨夜の給仕をしてくれた若いボーイに、 下手な英語で忘れ物のことを説明したが、まるで理解されない。
しばらくして、奥の方からその店のシェフが出てきた。
思いがけないことに、Nakaと名乗ったその店のオーナーは日本人だったのだ!
忘れ物のことを告げると、「もう無いだろうなぁ」と言いながら、すっと身を屈め、
右の頬を床にぴったりつけて椅子の下を覗いた。 彼は「おっ、やっ、あるぞ」と言ってパスポート入りの財布を、
深いずっしりとした椅子の狭い隙間から引きずり出した。
それから若いボーイの顔をまじまじとみつめて、
「こいつが掃除をさぼったお陰だな」と言って、にやりとした。
私たちの会話を理解していないボーイは、私たちをみて終始にこにこだった。
オーナーは右の頬にべっとりと付いた砂を払おうともせず、
「どうですか、ランチでも食べていきませんか」と私たちに言った。
細い裏通りの店に、日本人の観光客は珍しいのだろう。彼はとても懐かしそうな表情をみせた。
高校卒業と同時に片道切符でパリにフランス料理の修行に来て、 そのまま十数年・・・。
頬に付いたままの砂と、いくつもの疵が、彼のそれまでのパリでの生きざまを物語っていた。
ジャスミンティーを飲むと思い出す、 今から三十年以上前のパリの香りである。