最後の卒業式 2015.03.18
長野県内の小中学校は、今日が卒業式のピークである。
中には父兄の方が張り切っている姿もあるが、
もちろん主役は児童・生徒である。
私も遙か昔になってしまったが、
諏訪湖を見渡すことができる新築のJ小学校で卒業式を迎えた。
家から歩いて僅か数分の場所にJ小学校が出来たのは、
私が小学2年になろうとしていた頃だった。
小学1年生の時には、
約1.5kmの道のりを歩いてT小学校に通っていた。
家の近所にJ小学校を建設するために、
山の中腹の雑木林が切り倒され、
多くの土砂が平らに整備されていった。
最初の頃は土砂はいくつかの小山に盛られていたので、
夕方や休日には、その場所が、
私たち小学1年生には格好の遊び場になっていた。
土砂の小山の頂上に立ち、思い切り走り降りていく。
その勢いをもって、次の小山に。
傾斜に脚を上手く送れずに転んだりして、
膝を擦りむいて血を出しながらも、
暗くなるまで思い切り遊んだ。
今なら、立ち入り禁止になっているような場所だったが、
当時は何も規制がなく、
おかげで思う存分楽しい時間が過ごせた。
小2から通い始めたピカピカのJ小学校は、
小1のときにお世話になったT小学校のように、
体育館の雨漏りにバケツを用意することもなく、
だるまストーブに石炭をくべる必要もなかった。
重油を使った全館暖房で、
真冬の寒い時期でも、暑すぎて窓を開けることすらあった。
春から秋は虫の季節だ。
私は学校が終わるとすぐに、
J小学校から100mの下り坂を数分で駆け下り、
家の玄関にランドセルを投げ入れると、
その足で捕虫網を抱えて学校の裏山に出かけた。
もともとが雑木林の里山を削って小学校を建設したので、
学校の裏山には、雑木林がそのまま残っており、
多種多様な昆虫たちが生息していた。
また学校の横に流れる小川を形成する沢には、
沢ガニや水生昆虫が多くみられた。
小学校高学年になってくると、私は特に蝶に興味をもち、
標本をつくることに夢中になっていった。
晩秋になり、昆虫たちが少なくなると、
谷に続く小道に、大量に積もった落ち葉を使って
急斜面から滑り落ちる遊びをした。
ズボンに穴が開いて、帰ってから母から叱られたが、
すぐに知恵を働かせて、叱られないように
蓆(むしろ)や茣蓙(ござ)を持ち込んで滑り落ちるようにした。
冬になると、
小学校の体育館横の傾斜を利用してソリ遊びをした。
私は器用な父がつくってくれたソリを使って滑った。
父は竹を割って火で炙り、
微妙なカーブを付けたものをソリに付けてくれた。
実によくスピードが出た。
四季を通じて山の中に基地も作った。
雑木林の中を探検して真っ黒になった。
一度大きな骨をみつけたときには怖かった。
小学校の6年間、
まるでそれが仕事であるかのように、実によく遊んだ。
そして卒業式。
蛍の光や校歌を歌っていたら、なぜか涙が出てきて困った。
男子で泣いている子は、私の他に居たのであろうか。
今思うと、あれは思い切り幸せな涙だったのだ。
幸せすぎた小学校時代を振り返った嬉し涙。
そして。
私には、それが自身の最後の卒業式になった。
中学、高校、大学と、卒業式には出られなかった。
入院していたり、失恋して寝込んでいたり、
まあ、人生いろいろあるよ。
自身一度きりの「卒業式」のことを父に話したら、
父は「修学旅行」に行ったことがない、と切りかえされた。
そもそも、戦争の時代を生きてきた父には、
そんなことくらいで、
はしゃいだりしている人間が滑稽にうつるのかも知れない。
でも、私にとっては忘れられない記憶になっている。
J小学校校歌の第1番(覚えている範囲で)♬
たかつき繁る 宮ちかく
翼をはった 輝く母校
諏訪湖みわたす 明るい庭で
われら鍛えよ いつの日も ♫