羊の宇宙 2015.06.17
仕事柄、夜遅くに国道や県道を車で走ることが多い。
大型トラックの容赦のない接近に、時には危険を感じて
左に寄って道を譲ることもある。
彼らは有料の高速道路を避けて、
夜間の空いている一般道を猛スピードで走り、
再び高速道路に乗ることで時間と金を稼いでいるらしい。
警察の検問なども、トラック仲間から入手していて平気だ。
彼らの危険を伴う走りを一言でいえば<野暮で下品>だ。
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世界的な老物理学者を前にして、
天山山脈で羊飼いをしているカザフ族の少年は言う。
「車は不便で嫌いだな。それに車がお尻から出す臭いはたまらない」
「どうして車の方が不便なの?」と老物理学者。
「だって、車で行けるところなら、どこでも馬で行けるけど、
馬で行けるところで、車で行けないところはたくさんあるし、
車の食べるガソリンは高いけど、馬の食べる草はただみたい
なものだよ。ただひとつの取りえは、車のためにわざわざ
作られた道を走るときだけ、馬よりも速いってこと。
でも、速いってことは、それほど意味があることじゃないよ」
「でも、例えば、刈り取った羊毛を街まで運ぶのに、車なら
倍以上も早く行けるだろう? そうしたら、あまった半日を
他のことに使えるじゃないか?」と老物理学者。
「わかっていないんだね、お爺さん。その人は一日に何度も
羊毛を積んで街まで出かけてしまうことになるのさ。
早くなるということは、時間が余ることじゃなくて、
もっと忙しくなるということなんだ」
「この宇宙で、一番速いものって、何だろうね?」と老物理学者。
「それはひと口には言えないな、たとえば鳥が速いっていっても
土の中ではモグラの方が速いし・・・」
「この世で一番速いものは光だよ。馬より速い車が170年以上
もかかる距離を、光は8分ほどでやってくるんだ。だから
この宇宙には光よりも速いものは存在しないんだよ」
と老物理学者。
「もっと速いものを僕は知っているよ。それは僕のお父さんだよ。
僕のお父さんは、僕が生まれた
今から13年前の9月20日の夕方に、ここからすごく
遠いカシュガルに居たんだけど、僕が生まれた途端に、
お父さんはお父さんになったんだ。だから、お父さんがお父さんに
なるのに時間はかかっていないんだ。
もしお父さんが、車で170年かかる太陽に居たとしても、
やっぱり時間はかからない。
だから、お父さんになる、というのは、絶対に光よりも速いんだ」
カザフ族の少年と、天才と言われた老物理学者の会話はさらに続く
「さっき、物質とか、時間とかの話を、きみはしたよね。あれは、
とてもおもしろかった。
もう少しわたしに教えてもらいたいんだけど」と老物理学者。
「いいよ。物質というのはね、時間を入れるための器なんだよ。
それでね、時間っていうのもね、物質を入れるための器なんだよ。
たとえば石の中にだって、時間はある。太陽みたいなものにだって
時間はある。だからね、石の中にある時間の量も、太陽の中にある
時間の量も同じなんだ。1秒とか、1時間とか、いろんな時間が
あるけど、1秒の中にも、この宇宙は全部入っているし、1時間の
中にも、この宇宙は全部入っているんだ。
物質っていうのが時間を入れる器で、時間っていうのが物質を
入れる器だっていうのは、そういう意味なんだけどね・・・」
老物理学者は愛嬌のある顔が、
おさえきれないほどの微笑で埋もれそうになっていた。
そして「ビューティフル!」といい、
少年に抱きついてキスをしていた。
老物理学者と少年は、さらに長い時間を話し続けたのだった。
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夢枕獏さんの短編、「羊の宇宙」の内容の一部である。
たむらしげるさんの温かい挿絵も素晴らしい。
私の最もお気に入りの本のひとつである。宝物といってもよい。